崇高な愛の行方

 サルバドール・ダリという人物を御存知だろうか。

そう、あの奇想天外なあの人。最初は流石のインパクトに中学生の私は唖然としたものです。

 

 

 何故そんな人に私は魅せられてしまったのか。理由は3つある。

 

 

  ①私が最初に興味を持った画家がダリだから。中学の授業で取り上げられていて、周りは馬鹿にして笑っていたが、私は不思議に惹かれていた。よくわからなかったが興味を持ったのを覚えている

 

 ②絵と精神の関係に興味があるから。私自身も中学〜高校と美術部で絵を描いていたが、完成させたことは少なかった。それは、自分の精神的な状態が続かなかったからであった。状態が変わっても無理やり描くことは、もうその絵に嘘をつくことと等しいと思っていた。その経験から、精神と絵の関係に興味を持った。この点において、ダリのパラノイア的・批判的方法(後で説明しますね)にはとても興味があった。

 ③ダリのガラへの愛情の執拗さ。これが一番私には魅力的に映った。不器用なダリのガラへの驚くほどの愛情の持ち方は、私にはとても興味深いものだった。

 

ダリは、一般的には解釈が難しいとされている。それは、彼の過剰なまでの装飾性にあると私は考えています。1つ1つのものに大きな秘密を持たせるようにして、それを無数に散りばめることで、埋もれさせ、解釈が難しくなる、というもの。加えて、彼の独特の手法が理解を簡単にさせませんでした。独自のモチーフの解釈も特徴。

 そして、彼を語るうで「シュルレアリスム」というものは欠くことができない。「シュルレアリスム」についてはアンドレ・ブルトン(1896-1966)がパリで発表した「シュルレアリスム宣言(第一宣言)」の中で『口述、記述、その他あらゆる表現方法で思考の真の働きを表現しようとする心のオートマティスム、あらゆる理性による検閲を排除し、美学上、道徳上の一切の先入主なら離れて行われる真の書き取り』と言っている。瞬間的な知覚の表現、現実ではなく、より純粋な現実の追及により「超現実」を描く動きがシュルレアリスムだと私は理解しています。

 

<独特の手法とモチーフの解釈(一部分)>

「ダブル・イメージ」

見方の違いに応じて異なるイメージを喚起する作品を指す言葉。騙し絵の手法。ダリは幼少期から自分にしか見えない物を見ていたと言われています。その天性の視覚によって現れる無意識といえる世界を、キャンバスの中に描き表していく。ダブル・イメージは、その後、より多層なものになってダリの世界観を確実なものにしていく。

「偏執狂的・批判的方法」

1931年にダリが提唱した手法。夢などの無意識の世界における精神状態において連鎖的に浮かび上がるイメージを、伝達可能な形といてアウトプットすること。これは「シュルレアリスムの第一級の武器」とされ、多重的なイメージは、この方法を実践する為の具体的な技法。

「卵」

完璧や誕生の象徴。ダリの美術館にも用いられている。

「蟻」

死の象徴。子供の時に、動物の死体に群がる蟻を見てからこのように絵の中に落とし込んでいった。

 

ダリの作品を紹介する際には、彼の人生を追わない限りその説明は成り立たないと考えているので、次は彼の人生と共に作品を見ていきます。

 

サルバドール・ダリ(1904-1989)は、スペインのカタルーニャ地方の都市フィゲラスに生まれました。この地域はダリが尊敬したガウディを生んだ土地でもあります。この土地は己が見て触った物しか信じない、物質主義的な人を生み出す土地とも言われています!まさにダリが生まれるにして生まれた土地といえますね。この故郷の風景は生涯、彼の作品に現れることとなります。

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フィゲラスの風景


彼の名前である「サルバドール・ダリ」の「サルバドール」という言葉自体の正式名称はサン・サウヴァドール・ダ・バイーア・ジ(デ)・トードス・オス・サントスで、「聖なる救世主」という意味。サルバドール自体はポルトガル語で救世主(=キリスト)を意味します。何故このような名前がついたのかというと、ダリが生まれる9か月前に、1歳であった子供(ダリにとっては兄にあたる)が死亡したことにあります。悲しんでいる両親のもとに生まれたダリは親からしたら救世主と等しい。それ故に「サルバドール」と名付けられました。ダリ自身にとって、このような経緯は「自分は兄の半身に過ぎず、不完全である」というコンプレックスを彼に植え付けることとなります。

 

次は、最も彼の根源的な考え方の元となる家族との関係について。

父であるイクーシは、幼少期のダリにとって抑圧的で恐怖を抱く人物。父は地方の権力者であることから分かるように威厳のある人物。故に、ダリが身の程を知らない女性と付き合うことの無いように、ピアノの上に性感染症医学書を広げていたそう……。それを目にしたダリは大きなショックを受けて、女性に対してトラウマを抱える結果となる。ダリは権力や抑圧を嫌ったのですが、それは、この父へのコンプレックスによるものだと考えられている。

 そんな父と対照的とされたのが、母だった。ダリの全てを受け入れる寛大さを持ち、ダリに深い愛情を注ぐ。ダリにとって女神のような存在。故に、ダリが17歳で迎えた母の死は、彼に大きな衝撃を与えたことは想像に難くないでしょう。「レダ・アトミカ」や後半で紹介する「ポルト・リガトの聖母」に見られるマリア像からは、最期までの彼の宗教観に影響を与えたことがわかります。

母の死後、ダリが女神としたのは妹の「アナ・マリア」でした。その関係は兄妹の関係を超えたとも言われています。

 

以上の、①兄の死による自身への不完全なイメージ②シスコン・マザコン③エディスプコンプレックス3つのことは彼に大きな影響を与えたとされている。

 

ダリは、1916年(12歳)の時に中学入学と共にデッサン学校に入学、1922年にはサン・フェルナンド王立美術に入学する。彼は様々な時代の作家の技術をものにしていきます。

例えば、1923年に描かれた「アス・リャネーの浴女」は印象派の技法をもとにしています。ここでダリは「オレンジと紫の体系的な並置は~一種の幻影であり、センチメンタルな喜びであった」と述べました。

 同年にキュビズムにはまっていた時期は「キュビズム風の自画像」として作品を描くなど、ダリの吸収力には目を見張るものがあります。

 この時期からダリは学校に不満を持ち始めます(1923年に学生運動を扇動したとして停学処分を受ける、復学するも試験を拒否したことから1926年に退学)。

 

 1926年に妹らと共にパリに行き、1929年に再来した際にダリはシュルレアリスムグループとの交流を深めました。その後、パリでブニュエルと共に制作した「アンダルシアの犬」という映画をきっかけとして正式に迎えられることとなります。この交流の中で、ダリはガラと出会う。翌年には「批判的方法」論を提唱し、ガラのマネジメントが背中を押す形で、ダリは急速に勢いをつけていったのだ。1940年(36歳)の頃、ダリは第二次世界大戦の戦火から逃れる形でニューヨークに訪れた。この頃は、アメリカで舞台美術、映画やテレビを用いて表現の幅を広げていった。自己を天才とするようなアピールが増えて、自身の神話を作り上げていった。彼にとっては、自分のイメージを純粋に打ち出せる方法を模索していたに過ぎないのだが、しばしば「金の亡者」とも揶揄されたりもした。それほど、彼の活動は大きな影響をもたらしていたと考えられる。

 

1946年、日本に原爆が落とされたことはダリに大きな転機をもたらした。彼が恐怖としていた原子の恐怖が実際に起きてしまったことが、彼にとっては驚きだったのだ。この頃から、科学的な要素が、宗教的なイメージと混同される形で、作品に現れていく。

 

1982年にガラが死亡する。この年を境にダリは急速に力を失くしていく。遺作である「ツバメの尾」にはダリとガラのイニシャルを思わせる表現がなされている。

 

1989年に84歳でダリが亡くなる。彼は美術館の地下に埋葬された。

 

 

次に、ダリとガラの関係について説明していこうと思う。

ガラ(本名はエレナ・イヴァノヴナ・ディアコノワ)はロシアに生まれた病弱な女の子であった。ダリと付き合う前には、詩人ポール・エリュアールとの恋人であった。ガラは才能を見出すことに長けていて、多くのアーティストとの交流があった。ガラの性分は、男・若さ・才能・肉体・金に尽きる。

 女性に対しての恐怖を幼少期から植え付けられてきたダリにとって、母のように自分に愛を注いでくれるガラに惹かれるのは当たり前のことかもしれない。たとえ、その愛が歪んだものであったとしても、ダリは生涯かけてガラを愛した。結婚初期は、ガラはダリの内向的な部分を補うかのように、献身的に彼を支えてきた。ガラの作品の売り込み等のマネジメント能力を無し、にダリの成功はあり得なかった、と考える。時には絵の具の配合すらも一緒にしたという。苦しい時期をこのように共にしたことによって、ダリはガラと自分は双子であると言い、作品に連名で署名をするようになる。

 

結婚して暫く年月が経ち、ガラが殆どダリを金銭稼ぎの為の手段としか見ていないようになる。

 そこからダリの作品にはガラが崇高なものとして描かれ始める。私は、ダリはガラの愛が純粋に自分に向いていないことを、信じたくなかったのではないだろうかと考える。年月が経ってダリとガラの関係が冷たくなったことは1945年に描かれた「ガラリーナ」と20年後に描かれた1965「逆光のガラ」の対比からもよくわかる。明るさ、表情の違いがそれを顕著に表している。

 

ここまでは、ダリの人生・ガラとの関係性を見てきた。

次はダリと宗教画、ガラの女神化についてみていこうと思う。

 

ポルトリガトの聖母」1950について

この作品は、私がダリ展に行った際に一番心奪われた作品でもある。

この作品は、戦後にカトリックに帰依したダリが描いた宗教画である。

この頃はダリ自身の宗教観や、1946年の原爆投下から始まった原子への関心、「原子核神秘主義」による原子の主題が見て取れる。宗教と科学という矛盾したテーマを持っていた時期だと考えられる。彼は量子力学を絵画の方面から解き進めようとした。浮遊した物体で構成される宗教画を描き、そこにはしばしば女神化されたガラがそえられていた。

この作品は2種類ある。1948年に描かれた「ポルトリガトの聖母」は第1刷とされており、第2刷は1950年に描かれたものである。前者のほうがサイズとしても小さい、後者は大作であると同時に制作期間は前者の作品よりも五か月長いとされている。

第1習作は、教皇ピオ12世に謁見を許された際にダリが持ち寄り、献上した作品である。その際には格段の評価を得たと言われている。第1習作と第2習作の2つが存在する理由は、「マリア」の書かれ方にある。第1習作はマリアであったが、第2習作ではガラになっている。教皇のもとに持ち寄る際にマリアがマリアとして然るべき姿で描かれていないことは、教皇に対しての不敬と等しい。そのことを考えたダリの書き分けだと考えられる。

しかし、どちらにしろイエスの子のモチーフはダリであるとされている。このことを踏まえると第1習作と第2習作のサイズや制作期間の差が違うことにも納得がいく。彼が本来表したかったのは、マリアであるガラと、その胸で安らぐ自分の姿だったのだ。

 

この作品はピエロ・デッラ・フランチェスカの「天使と六聖人に囲まれた聖母子」がベースとなっている。その根拠とされている部分は「天井の貝殻と卵」「聖母子」「建物」が主な部分であると私は考える。

 

この作品において「建物」等のモチーフは分裂している。これは、ダリの「非物質化」による、正統的な宗教的立場になりたいという思いが見て取れる。ダリはシュルレアリスムの活動の中で、仲間と共に反カトリックの運動をしてきた。だが、ダリは、亡き母の根深いカトリック信仰を思い出し、改宗を遂げた。いままで反カトリック運動をしていた自分を反省するかのような様子を感じた。

この絵画、下方には教義的な図像が並べて描かれている。「バラ」「オリーブの葉」「魚」である。「バラ」はマリア、「オリーブの葉」は平和、「魚」キリスト教を表す。そして、背景には、ポルト・リガトの風景が描かれている。この風景からは、最もガラと過ごした風景の中で、ガラの愛と共に生きたいというダリの願望が見て取れる。後ろにいる、白い衣装をまとった点々と配置されている天使にはガラの面影が見て取れる。「天使」は教義的には、真・善・美において神に準じて完成性の高い水準である意味を持ち合わせている。この点からも、ガラへの崇高な愛を感じざるを得ない。

特にここで大きなポイントになるのはマリアの部分である。先ほども述べたように、第1習作ではマリアが、第2習作ではガラ(ダリにとってのマリア)が描かれている(幼児イエスを伴う聖母マリアが描かれている)これは、崇拝や祈願の対象であり、聖母マリアは神聖顕示を目的とされている。西欧では、単純にマリアの人間的な優しさを強調することが多く、ビザンティンでは、荘厳である母(マリア)は導き手であり、勝利者という意味になっている。ダリはその中間ではないかと考える。ガラはビジネスにおいては「導き手」であり、私生活(ダリにとっては生涯)では「優しさ」の最たるものと考えたからだ。

 ここで描かれているマリア(ガラ)は胸の部分はくり抜かれており、そこには幼きイエス(ダリ)が描かれている。第2習作ではイエス(ダリ)の中心には穴が開いている。その中にはパンが描かれている。パンはキリスト教美術においては「肉」を意味するがダリにおいては「可食的な妄想」を意味する。これが幼少期のダリの中心にあること、それは、幼少期から抱え込んできた彼のパラノイア的な部分という最も根源的な要素を現しているのではないだろうか。そして、ガラの元にいること、それはダリが愛情を求め、愛による安寧を求めている、ということを現していると私は考えた。ピエロの絵から受けたであろう天井の貝殻は、1931年の「記憶の固執」において、固い貝殻のような最愛のガラのなかにいる「か弱い裸体」としての自己を見出したことと関連していると考えた。

 

ここにはダリ自身の純粋な心が、マリアとイエスを媒介として描かれている。「レダ・アトミカ」でも神聖化したガラと白鳥(ゼウス)のダリという形で見られるが、「ポルト・リガトの聖母」が一番ダリの求める愛等が純度高く描かれていると考える。

この作品は、ガラへの愛を感じることは勿論のことだが、あまりにもガラに執着したしせいからは、当時のダリとガラの関係性の冷え込みも感じさせる。その最中、ダリはガラを女神化することによって、自分の中で永遠の存在にしたかったのではないだろうか。ダリにはもう絵画の中でしか彼女に想いを馳せることしかできなかったと考える。神聖で荘厳な雰囲気の中に、もの悲しさを感じたのはこのためだと思った。同時に、聖人化されていた母の存在の喪失により、ガラを聖人化した姿で描くことは当然の流れだったかもしれない。

 

私は彼の人生を愛おしく感じた。

 

 

参考文献

田淵晋也 川上勉 『ダダ・シュルレアリスムを学ぶ人のために』世界思想社 1998年

クリストファー・マスターズ 『アート・ライブラリ ダリ』西村書店 2002年

ジェイムズ・ホール 『西洋美術解読辞典』河出書房新社 2004年

鈴木國文 『時代が病むということー無意識の構造と美術』日本評論社 2006年